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伊東家侍住宅

和洋食道エクリュが店を構える伊東家侍住宅の歴史をご紹介します。

 

金ヶ崎町城内諏訪小路重要伝統的建造物群保存地区

伊東家侍住宅

(保存物件)

歴史

 

伊東家はいつ大町家に仕えたかは明確ではありません。

 

しかし、譜代の臣と伝わっていますので寛永21年(1644年)、金ヶ崎に大町家とともに藤沢から来たと思われます。

 

約750坪の屋敷を要害(城)の六軒丁北側にいただき、今日まで

 

変わることはありませんでした。禄高は一貫四百文(捨四石)で大町家家中では上位の禄高と思われます。

 

八代盛頼(1801~1839)の代に家老職を務めました。

 

屋敷

 

屋敷は東西に広く、東北にせまい方形状の屋敷です。

 

金ヶ崎の武家屋敷は「千坪屋敷」と通称されていますが、当家は(元900坪-現在750坪)の広さで

 

表小路と六軒丁が交差する要地にあります。屋敷構成は、表小路、六軒丁側にサワラヒバと生垣が回されています。

 

六軒丁の中央の生垣の切れ目が入ると左側に畑地、右側に庭が広がり梅、桜、紅葉などの樹木が見られます。

 

松の古木の下を通りやや右側に曲がると主家式台に至ります

 

住宅

 

主屋の創建は江戸時代末期(19世紀初頭)と考えられます。

 

当初は縦行き7.5間、梁間4.5間茅葺、寄せ棟屋根、土台入り直ご屋で外壁はすべて土壁でした。

 

間取りは「整形田の字形4間取りで、式台、玄関の間の左側に土間、奥が板間、さらに板間の左側に張り出しの土間がありました。

 

明治時代に入って2回、昭和時代に2回の大きな改築がありました。

 

とりわけ昭和40年代には金ヶ崎住宅の特徴である茅葺の大屋根が切妻の鉄板葺きに改修されました。

 

今回は明治時代の一回目の改修時の姿を基本として復元しました。

 

奥より納戸(7.5畳)、奥座敷は一間半の床間、裏屋敷(7.5畳)、居間(12.5畳)、板間(15畳)、侍住宅としての式台(1.5畳)

 

玄関の間(3畳)、玄関の間左脇の中間(ちょうちん)部屋(3畳)となり、張りだし土間部は居住部としました。

 

土台、外壁は元通りとしましたが、屋根が寄せ棟鉄板葺としました。

 

侍住宅としての式台、玄関の間、さらに玄関の間左脇のちょうちん部屋。

 

奥座敷は一間半の床の間、平書院を持つ奥座敷。

 

伊東家侍住宅は金ヶ崎町の侍住宅の姿を伝えています。